研究部会報告2021年第1回

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研究部会報告

東日本部会

2021年4月17日(土)13 : 30から18 : 40 まで、オンライン(Zoom)で開催された。 2件の研究報告に加え、今回は新たな試みとしてドキュメンタリー上映会を実施したが、登壇者・参加者ともにZoomの扱いには慣れており、技術的な問題もあまりなく 円滑に進行することができた。開催告知と リマインダーを学会メールで配信した結果、21名の会員から事前申し込みがあり、当日は登壇者を含め10数名~20数名(最大26名)が参加した。5時間あまりの長丁場であったが、多様な視点から活発な質問やコメントが出され、前回同様、オンラインで充実した議論が可能であることを認識する機会ともなった。
岸川毅(上智大学)

〈個別報告1〉
「パナマにおける新型コロナウイルスの経済的影響」

発表者:Ruben E. Rodriguez Samudio (北海道大学)
討論者:久松佳彰(東洋大学)

CEPALの報告書において、パナマは、カリブ海の国とベネズエラを除き、ペルーに次いで新型コロナウイルスの影響を受けた国とされている。貿易の中心地であるパナマの経済は、物流、建設、卸売・小売、およびサービス業がGDPの70%を占めている。特に2006年以降、公共事業の拡張によって10年に及ぶ好景気となったが、2016年以降景気後退が始まり、新型コロナウイルスによって更に加速している。新型コロナウイルスの初感染者が確認された後、パナマ政府は外出禁止命令を発令し、ほとんどの民間企業が休業となった。その中で建設業やサービス業が最も影響を受けたが、近年銅を中心としている鉱業が成長した。経済的な政策として、新型コロナウイルスの影響を受けた者に対する経済支援と銀行ローン等返済猶予に関する法律を可決した上、テレワーク法とその規則も決定した。更に政府は国債の発行によって歳入の補足を求めている。金融業界は、休業と返済猶予によって新規のローン、特に住宅ローンに対して、消極的なアプローチを取っている。現時点で国債がGDPの約65%となっているため、比較的健全であると言える。以上の報告に対し、討論者からはパナマの最新の状況を手際よく整理したことの意義が指摘されるとともに、住宅ローンやクレジットカードの返済延期対象額の経済規模における比率やテレワーク規制法の内容などについて質問があり、また参加者からは中国の経済進出との関係について質問があった。

〈個別報告2〉
「2020年ブラジル地方選挙・速報――コロナ禍の現状と課題」

発表者:西藤憲佑(東京大学大学院博士後期課程)
討論者:山崎圭一(横浜国立大学)

本報告では、2000年代以降ラテンアメリカ地域における左派政権の財政支出政策について、その決定要因を考察した。2000年代以降の左派政権のなかで、マクロ経済学の一つの議論に基づく、「カウンターシクリカル」と呼ばれる財政支出政策を実践できる国と、それを実践できない国が現れた。なぜ財政支出政策に違いが生まれたのか。そこには先行研究では解明されてこなかった新たな要因があると判明したため、定性的な分析手法を用いて、条件が比較的類似するコーノ・スール諸国を比較分析した。結果、左派政党による経済専門家への依存度の違いが、左派政権の財政支出政策の違いに影響するということが確認された。討論者からは、財政の収入面(税収)の状況確認があったほか、財政支出政策の決定における属人的な要因に関する質問などがあった。また、参加者からは、「カウンターシクリカル」な財政支出政策の捉え方や、アルゼンチンを比較対象として扱う困難さなどについてコメントが寄せられた。

ドキュメンタリー映画上映会

企画・解説:細谷広美(成蹊大学)

ラテンアメリカでは現在各地で政治的暴 力を扱った「記憶の博物館」が建設されて おり、記憶をめぐる議論が活発化してい る。本企画ではペルーの紛争を扱ったド キュメンタリー映画として、紛争下で多く の人々が行方不明となった軍施設「ロス・ カビトス」を扱う「Te saludan los Cabitos」 (Luis Cintura監督、2015年)と、国内避難 民となった人々を核に社会的セクターに よっても多様な断片化した記憶を扱う 「Nada queda sino nuestra ternura」(Sébastien Jallade監督、2017年)の2作品を上映した。 企画者による趣旨説明とSébastien Jallade 監督からのメッセージ(録画)の後、各自 が指定されたURLにアクセスして映画を 視聴した。視聴後に再びzoomに戻り、映 画製作をめぐるペルーの政治社会状況につ いて、質疑応答とディスカッションを行っ た。多人種・多民族・多文化の市民社会に おける暴力の記録、記憶とその継承、及び ドキュメンタリー映画という手法について、共に考える機会となった。


中部日本研究部会

2021年度第1回の中部日本研究部会は、2021年4月24日(土)14時より17時までオンライン(Zoomミーティング)形式で開催された。参加者は、発表者、討論者を含め21名であった。発表者から1時間ほどの報告があった後に、討論者よりコメントがなされ、全体での質疑応答・討論へと続いた。研究発表後の懇親会は会員間の貴重な研究交流・親睦の機会となった。以下は各報告の概要である。
渡部森哉(南山大学)

〈第1報告〉
「存在論的転回によるオープンエンドな議論は分析に何をもたらすのか?~デ・ラ・カデナの研究をてがかりに概念の多義性を考える~」

発表者:上原なつき(名桜大学)
討論者:細谷広美(成蹊大学)

 本報告では、マリソル・デ・ラ・カデナの論考(2017)を検討し、報告者の研究テーマであるアンデスの死者観および他界観の研究に「存在論的転回」および「オープンエンドな議論」をどのように援用することができるか、今後の可能性について報告した。
デ・ラ・カデナはペルー・クスコ県のアンデス先住民による鉱山開発反対運動を調査するなかで、自身とアンデス先住民との間に存在する山の概念についての「取り違え=多義性(equivocation)」に着目する。リマ出身の人類学者であるデ・ラ・カデナにとってはマチュ・ピチュやアウサンガテは自然としての山であるのに対し、彼女のインフォーマントである、先住民運動のリーダーであり呪術師であるナサリオの世界では、マチュ・ピチュとアウサンガテは生きもの(beings)であった。アンデス先住民の世界で山はアプと呼ばれ生きているとされるのは、アンデス研究者であれば常識的なことであり、デ・ラ・カデナがことさらに強調することに疑問を抱く。また、デ・ラ・カデナは先住民にとっての山という概念を事細かに分析することはせず、「オープンエンドなフィナーレ」として論考を終える。注意すべきは、デ・ラ・カデナが「政治参与する知識人」としての自負があり、政治という場における変革を意図していることである。政治においては先住民の命や権利は保護されるべき対象とされることはあっても、先住民の世界そのものが考慮されることはない。人間だけが主体である単一世界(ユニバース)を前提として政治が行われるのではなく、山が生きていて政治的主体とされる先住民の世界も同時に存在するという、多元世界(プルリバース)の政治をデ・ラ・カデナは提案する。デ・ラ・カデナが両者の間で「取り違え」が起こったことに着目しながらも、先住民にとっての山とはなんであるかを詳細に分析しようとしないのは、他者の存在論をありのまま提示する、存在論的転回における「ラディカルな他性」として扱っているといえる。同時に、両者の山の概念は全く相いれないものではなく「部分的つながり」(ストラザーン2015)を有している。報告者はアンデスの死者観および他界観について研究を続けているが、アプだけでなく山はマチュやアウキとも呼ばれ、それらの名称は山、老人、身分の高い者、死者、遺跡など多義的意味合いがある。しかし、それはあくまで研究者側の世界において多義的なのであり、アンデス先住民にとってはそれらを同じ名称で呼ぶということはひとつの概念として理解されているか、または「部分的つながり」をもった峻別不可能な連続的なものなのではないだろうか。松本剛(2017)が述べているように、個別性を持った近年の死者から、時間的隔たりのある集合的祖先へ、それが祖先崇拝の場としての神殿となり、聖なる山への信仰へつながっていくという発展的モデルは、考古学研究においては有効であると考える。しかし、現在のアンデスの信仰について考えるとき、「ラディカルな他性」として、もっと曖昧で連続的なものとして提示することが可能ではないだろうか。
討論者の細谷からは、アンデス研究者であっても、先住民が山は生きていると考えていることが必ずしも理解されているわけではないこと、特に欧米の研究者やデ・ラ・カデナのようなリマ出身者には理解されていないという指摘があった。また、たとえマチュやアウキなど同じ名称で呼ばれていても、村や地域ごとにそれらの用語が何を意味するかは異なっており、どのような文脈でそれらの用語が使用されているかは、やはり詳しく見ていく必要があるとのコメントをいただいた。「存在論的転回」と呼ばれる一連の思潮をどのように報告者の研究に援用するかという試行錯誤の途中経過的報告であったが、討論者およびフロアからは有益な質問やコメントをいただくことができた。

〈第2報告〉
「エルサルバドル西部出土の石彫の生と死の表象」

発表者:伊藤伸幸(名古屋大学)
討論者:芝田幸一郎(法政大学)

 エルサルバドル共和国チャルチュアパ遺跡エル・トラピチェ地区では、2012年から考古学調査が継続して実施されている。当該遺跡最大の土製建造物E3-1建造物は、20mを超す高さがある。このエルサルバドル最大の先スペイン期の建造物南側階段前から2基の動物形象頭部石彫が出土した。発表では、この石彫2基が表す意味を考察した。エル・トラピチェ地区E3-1建造物の上り口から建造物上部への神殿に向かうとした場合に、1号ジャガー頭部石彫左目と2号ジャガー頭部石彫の右目が迎えてくれる。この2つの目はいずれも虚ろである。この虚ろな目は“死”を象徴しており、E3-1建造物上部にあった神殿の入り口から地下世界に到るために、死者もしくは儀礼的に破壊することで殺されたものを迎えていると考えられる。一方、2号ジャガー頭部石彫の左目は、1・2号ジャガー頭部石彫の4つの目のうちで最も東にある。反対に、1号ジャガー頭部石彫の右目は最も西にある。言い換えるならば、最も西にある目は地下世界に向かう太陽に最も近く、最も東にある目は地下世界から生まれてくる太陽に最も近いと言える。このために、1号ジャガー頭部石彫の右目は虚ろで“死”を表現しているのに対して、2号ジャガー頭部石彫の左目は虚ろでなく、“生”を表している。つまり、これら2つの目は太陽の動きを体現しているのである。従って、この頭部石彫には生と死の表現があり、太陽の動きも表している。また、この石彫はエルサルバドル西部に分布しており、この地域の王権にも関連があると考えられる。本報告では、この生と死に関する表現の意味をメソアメリカの宇宙観とエルサルバドル西部の権力と関連付けて考察した。
討論者の芝田幸一郎会員は、考古学遺物から、当時の社会を復元するには、様々な関連諸科学の研究方法を利用し、通時的に歴史を復元することが必要であることも指摘した。また、チャルチュアパ遺跡調査が–28–四半世紀という長期にわたって継続していることに触れ、継続調査にはその遺跡を中心とした古代文化の解明に意義があるとのコメントがなされた。フロアからは、天文考古学的な比較などの論点が示された。


西日本研究部会

2021年5月8日(土)14時より17時までオンライン形式で開催された。発表者は2名の若手研究者で、それぞれに討論者がついた。参加者は25名(参加申込者は27名)。発表者、討論者、参加者とも、西日本地区に限らず、国内各地および外国からも接続があり、前回同様、オンライン開催のメリットが感じられた。質疑応答もさかんに行われ、充実した研究部会となった。会の終了後も発表者、討論者、一部の参加者の間でディスカッションや意見交換が1時間ほど続いた。
鈴木紀(国立民族学博物館)

〈第1報告〉
「ハイチのヴォドゥ(18、19世紀を中心に)」

発表者:今井達也(東京大学大学院)
討論者:狐崎知己(専修大学)

 現在、発表者が取り組んでいる博士論文『(仮題)ハイチのヴォドゥとその分身ヴードゥー―アメリカ占領期ハイチ(1915–1934)の公衆衛生政策と呪術―』の経過報告がなされ、17世紀末のフランス統治下のサン=ドマング時代から20世紀初頭のアメリカ占領期までのヴォドゥ表象の形成史をふまえながら、ハイチが後発開発途上国にとどまる要因のひとつをハイチの文化や当地の民間信仰ヴォドゥに求めて介入を正当化してきたナラティブの淵源を探る考察がなされた。
まず、17、18世紀のフランス領サン=ドマング時代に発布された関連法規の分析を中心に、黒人奴隷による呪術的な諸実践が、現地の白人社会を中心に次第に問題視されてゆく過程と、それにもかかわらず、その後の19世紀ハイチにおいて呪術的な行為の総称となっていったヴォドゥの名称が、17、18世紀に発布された法令に現れなかったことが示された。そして、1804年にフランスから独立してしばらくの1825年に発布された刑法で、ヴォドゥは呪術的な行為の一種として明示的に禁じられる。他方、憲法では宗教の自由が認められていた。本発表では、特に、19世紀を通じてハイチ国外で公表された諸出版物に注目し、ハイチで実践されていたとされる他の呪術的な諸行為のなかでも特にヴォドゥが明示的にそれらの出版物において名指され、その結果、ハイチ国外における認知において、ヴォドゥが、諸呪術の一種ではなく、呪術を総称するものとなり、さらには、「文明化しない野蛮な国」、「人肉食に明け暮れて殺戮を繰り返す人々」、「自己統治ができないハイチ」を代理し表象するものとなっていった過程が示された。最後に、19世紀までに形成されたヴォドゥの表象を下地としながら、20世紀初頭のアメリカ占領期ハイチにおいて、ヴォドゥは、英語話者である占領軍関係者にとっては「ヴードゥー」として、文明をもたらす占領軍の暴力を正当化する口実となっていった過程が、占領軍の関連史料をもとに示された。
討論者の狐崎会員からは、ヴォドゥに代表されるようなハイチ文化を、貧困の罠、発展の阻害要因とみなすナラティブの形成史を考察した発表者の報告について評価がなされながら、まず、開発経済学の視点からは、当該分野の現代的な潮流においては開発の阻害要因として文化的要因を扱うことは稀となっている旨の指摘がなされた。その上で、ハイチの低開発要因として、歴史・制度的要因に加え、経済学者エトゼル・エミールが挙げる「ハイチ、20の貧困理由」(「ハイチ農業の急速な自由化とアメリカ産コメ輸出業者のダンピング輸出」、「トップダウン、集権的な公共政策、首都一極集中」など)などについて紹介がなされ、多角的な視点からハイチの低開発要因を意識しつつナラティブの形成史を分析することの必要性が指摘された。合わせて、占領期の公衆衛生政策に関し発表者が博士論文で予定している考察について、占領軍による暴力の質の変遷、生–権力的な機制の一端を探る試みとして、期待が示された。その他、フロアの会員方からは、ハイチ史における「ミュラートル(白人と黒人の混血児)」と「ノワール(黒人)」をめぐる人種主義、政治、階級のかかわりについて概観しつつ、ヴォドゥをめぐるナラティブの形成過程において、当該の人種主義の影響を考察する必要性などが指摘された。また、占領期当時のアメリカとハイチの知識層におけるヴォドゥ表象の分析や、ハイチ革命期の近隣地域へのインパクトについて、特に、ガリフナ研究の見地からの関心が示されるなど、発表者の今後の研究に資する多くの有益なコメントがなされた。

〈第2報告〉
「社会変革の手段」としてのノンフォーマル教育活動に関する考察

発表者:澤邉優子(学校法人NIPPONACADEMY)
討論者:田村梨花(上智大学)

 本報告では、ブラジル・ブラジリア連邦区パラノアを調査対象地とし、この地域で行われる音楽教育プロジェクトProjetoMúsicaeCidadaniaの事例をもとに、「社会変革の手段」として行われるノンフォーマル教育活動について、音楽教育プロジェクトがどのような仕組みで行われ、そこにはどのような課題が見られるのか、いかにして「市民権(Cidadania)」を獲得するのかを明らかにした。そして、それらの問いに答える中で、音楽教育がもたらす「社会変革」を教育者と学習者の語りから分析し、「社会変革の手段」としてのノンフォーマル教育活動を考察した。
まず、社会変革のための教育実践として機能する民衆教育の概念や、学習時間の拡充を目的に実践される教育概念である包括的教育について述べた。また、市民権の重要性として、市民権を持たないことが社会生活や意思決定から疎外・排除されることに繋がるため、市民権獲得は必要不可欠であり、市民権獲得のための重要な手段と位置づけられたノンフォーマル教育活動は社会プロジェクトとして各地で発展し、社会変革のための教育実践として機能していると述べた。次に、音楽教育が与える影響として、生活改善や人格の成長を促す原動力になること、音楽教育によって生じる随伴的効果を目的とする道具主義的音楽教育の概念を紹介した。さらに、高い評価を受けているベネズエラのエル・システマやブラジル・サンパウロで行われるバカレリ協会を紹介し、音楽教育プロジェクトが発展途上地域で効果を上げていることを示した。今回、調査を進めていく中で、プロジェクトには運営資金の獲得や地域コミュニティの関係の希薄さ、プロジェクト内部での活動理念・目的意識の違いなどさまざまな課題が見られた。しかし、ブラジリア連邦区の中でも平均所得が低くさまざまな社会的問題を抱えるパラノアでは、若者が安全に余暇を楽しむことができる環境が少なく、プロジェクトに参加することや活動場–30–所が地域において重要な文化的・社会的機能を果たしていることも明らかになった。ブラジルにおけるノンフォーマル教育の在り方は、公教育だけではまかないきれない教育分野の補填として機能している一面もあるが、それだけではなく、人間形成や社会への接続のための教育として機能している。ノンフォーマル教育においての「社会変革」とは、国家社会の政治的・経済的な変革ではなく、その人自身が公教育とは異なるノンフォーマル教育を受けることにより、居場所を作り、社会から排除される可能性・悪影響から逃れ、社会で生きていくための価値を見出すことで、国や地域の社会的成長に貢献していくことであると考察した。
討論者の田村会員からは、ブラジルにおけるノンフォーマル教育の特徴として、参加者主体であることや文化活動を重要視すること、その目的が「社会変革の担い手としての意識を高める教育」であることなど補説がなされた。また、音楽教育プロジェクトと支援組織との関係性や、学習者のエンパワーメントのその先をどう捉えているのかなど見解を問われた。フロアの会員方からは、今回取り上げた音楽教育プロジェクトが西洋楽器(ヴァイオリンなど)を用いる活動であることから、西洋音楽の背景からパトロンの存在が重要視されるのではないかといった意見や、活動にかかわるアクターの種類や、ノンフォーマル教育活動と政権の関連性について質問など、今後の研究に役立つ多くの有益なコメントがなされた