研究部会報告2021年第2回

東日本研究部会中部日本研究部会西日本研究部会

東日本部会

2021年12月11日(土)13:30から17:30まで、Zoomオンラインにて開催された。2件の報告及び日本ラテン・アメリカ政経学会との合同企画としてハイチ危機をテーマとするパネル報告が行われた。参加者は個別報告1に19人、個別報告2に22人、パネルに37人、のべ78名の会員が国内各地から参加され、以下のような活発な討議が行われた
狐崎知己(専修大学)

〈個別報告1〉
「コロナ禍のエクアドルにおける、山間部小学校の子どもの状況と支援の継続の姿」

発表者:杉田優子(エクアドルの子どものための友人の会SANE)
討論者:狐崎知己(専修大学)

SANEは、2019年3月より3年間の予定(現在は3年5ヶ月に延長)でJICA草の根技術協力事業に取り組んでいる。この新たな挑戦は、学校菜園と給食実施の道筋作りなどを通じて、小学生の学校生活を改善することを目指しているが、コロナ感染症が世界中に広がり、事業開始から1年後の2020年3月に予定されていた報告者のエクアドル出張は直前で中止となり、全ての事業校が閉鎖されてしまった。
本報告では、パンデミックという誰もがこれまで経験をしたことがない状況の中で、報告者の会のような、現地に事務所を持たない、基本的にボランティアが支えているNGOが、地域と子ども達の窮状を少しでも支援しようと、JICAや他の助成金組織とどのように交渉をしながら教育支援を継続してきたのかを、現地政府の対応にも触れつつ報告し、未曽有の危機に直面して市民社会が果たし得る役割について考察した。報告の中で議論した一つの点は、SANEがこのような事態に有効に対応できたとすれば、それはなぜかということである。大きな資金を動かしている政府や組織が姿を消す中で、会の活動が唯一止まらないですんだのは、純粋に子どもの権利を守る意思(ボランティア)で動いてきたスタッフの思いと、限られた資源の中でできることを工夫してやる活動の方法が元々あったことであった。小規模NGOは組織基盤が脆弱で存在自体の持続可能性が常に問題になっているが、このような事態に実は強かったことが示されたことは、活動の持続可能性の議論の中で新しい視点ではないか。もう一つ重要なことは、現地のニーズと、外からの支援とを繋いだことである。外からの支援を可能にしたのは、現地と直接やりとりのできるネットのコミュニケーションツール、呼びかけ、そして32年間にわたる活動で築き上げた信頼関係であった。また、新大統領が掲げたワクチン接種の促進、これに伴う感染者数の減少と学校再開への動き、これと連動した事業の進行が功を奏したと言えるだろう。
討論者の狐崎氏からは、開発ミクロ経済学の観点から事業評価をする時の具体的な要因、生活改善アプローチの視点から事業の進め方のヒントをいただいた。中でも生活改善アプローチからの指摘には今後の事業の進め方に参考になる豊かな示唆が含まれており、活かしていきたい。また、参加者から家庭訪問についての質問や、励ましをいただき、心より謝意を表したい。

〈個別報告2〉
「アルゼンチンの国勢調査における「先住民」統計をめぐる議論の現況」

発表者:遠藤健太(フェリス女学院大学)
討論者:敦賀公子(明治大学)

本発表では、アルゼンチンの2022年国勢調査のなかで実施されることになっている先住民調査に焦点を当て、その特徴と意義を論じた。まずは、同国における先住民統計の前歴を概観した。ここでは、19世紀~20世紀には先住民人口に関する全国規模の調査が完遂された例がなかったこと、および、2001年と2010年の国勢調査では先住民人口に関する調査が実施されたがいずれも不完全なものだったことを確認した。そして、2022年国勢調査が、先住民(およびアフロ系)としての自己認識に関する質問を全住民向けに実施する初の試みとなり、その点で重要な歴史的意義をもつことを指摘した。次に、近年のラ米諸国の国勢調査にみられる多文化主義的傾向(=人種・民族別の人口調査を積極的に実施する傾向)を確認したうえで、そのなかでのアルゼンチンの特徴を考察した。ここでは、同国の国勢調査が2001年以降(他の多くのラ米諸国同様)段々と多文化主義的傾向を強めてきていることを確認しつつ、他方で先住民言語に関する質問をこれまで一度も実施していない点が特徴的だと指摘した。そのうえで、現在同国の先住民団体が「言語」調査の実施を求める運動を展開している様子を紹介した。次に、民政移管以降のアルゼンチンの先住民政策(主な法令の制定・改正等)の経緯をふり返った。ここでは、アルゼンチンが(世界的・汎ラ米的な潮流に呼応して)先住民の権利保障に関する法整備を1980年代から進めてきたことを確認しつつ、その法制度に実態が追いつかず政策の実行にはたびたび遅延が生じてきたことを示した。そのうえで、特に2000年代からは先住民の権利保障に関する具体的な政策が徐々に実行されてきたことを確認し、2001年国勢調査以降の先住民統計の漸次的な拡充がこういう文脈で実現してきたものだったことを指摘した。
討論者の敦賀会員からは、ご自身が専門とする中米諸国の事例(先住民やアフロ系の人口・言語調査の実施状況)の紹介という形で比較研究の可能性が示されたほか、アルゼンチンの先住民団体がいまなお「言語」調査の実施を求めているのは何故かという質問がなされ、それをめぐり若干の議論を交わした。その他の会員からは、アルゼンチンの国勢調査票の文言における「先住民」の捉え方が本質主義的にみえるとの指摘や、その調査票の作成過程における先住民団体の関与の有無等を調査すべきとの指摘など、発表者の今後の研究に資する有益なコメントをいただいた。

パネル
「深刻化するハイチ危機」

発表者:尾尻希和(東京女子大学)
久松佳彰(東洋大学)
狐崎知己(専修大学)
受田宏之(東京大学)
今井達也(東京大学大学院)

危機を「国家の基本的機能の喪失」及び「日常生活の急激な悪化」と定義するならば、危機の悪循環に歴史的にとらわれてきたハイチは、2021年7月の大統領殺害によっていっそう混迷の度合いを深めている。ハイチ危機を学際的に分析討議するために、ラテン・アメリカ政経学会と合同でパネルを企画し、両学会から37名という多くの会員が参加した。ハイチ研究の蓄積が浅い日本において、学会の枠組みを超えた総合的な研究を促進するうえでも、合同パネル開催の意義はあったと言えよう。尾尻報告は「ハイチ憲法改正問題:ガバナンスの確立に向けて」と題し、報告者のこれまでの研究蓄積を踏まえながら、ハイチ政治を理解するうえでのキーワードと政治制度の基本的特徴を説明した。そのうえでデュバリエ時代の憲法改正から1987年憲法、2011–2012年の憲法改正、2021年9月の憲法改正案に至る各憲法の特徴と政治的争点を大統領の権限にフォーカスしながら比較制度分析した。大統領殺害後の憲法改正案と政治改革をめぐり、大統領の権限強化を主張する専門家グループと独裁を警戒する世論(「市民社会」グループ)の間で対立が続いており、主要政治勢力及び国民多数の合意にもとづく憲法改正が望みにくい状況にあることから、法的措置によるガバナンス問題解決には限界があると結論づけた。フロアからは、ハイチ政治の課題を憲法改正から分析する視点は大変興味深いとのコメントが寄せられた。久松報告はハイチ経済をテーマに、まず、これまでのハイチ経済の主要振興策を比較分析し、輸出振興面では一定の成果を見せながらも、近代経済の持続的成長に欠かせぬ諸条件がほとんど未整備のままである点を指摘した。条件整備の最大の障害要因として、貿易部門と国内流通を牛耳る経済エリート・ネットワークの中心的アクターが排他的な特権を守るためにクーデターに訴え、寡占市場を維持してきた点をJ.Robinsonらの最新研究にもとづき論じた。輸入価格が高く、市場効率が悪いハイチでは、経済政策にフォーカスした振興策の効果は限定的であり、政治経済的な分析にもとづく権益構造まで踏み込んだ改革政策が必要だが、これを立案実行すること自体が極めて困難であると結論付けた。
フロアからはハイチ貧困層の生活の糧である郷里送金がエリート・ネットワークの「食い物」にされるメカニズムについて質問があり、輸入品の高価格維持が貧困家計に及ぼす悪影響について説明された。狐崎報告は「ハイチ危機の政治経済学」と題し、まずハイチが直面する多様な脆弱性と慢性的貧困に関するモデルとデータを提示した。そのうえで中位投票者モデルに依拠するならば、自由公正な選挙のもとでは慢性的貧困状態にある中位投票者の願いに応える改革派大統領が当選し、改革が試みられることが合理的な帰結となると説明した。それが故に、エリート・ネットワークが歴史的特権を維持するためにクーデターに訴えることも合理的であり、アリスティッド政権への2度のクーデターはこのモデルで説明できると論じた。プレバル政権以降は自由公正な選挙制度自体が崩壊したため、中位投票者モデルが成立しえず、故にクーデターも不要となったと結論づけ、「ハイチ危機」の根底にはエリート・ネットワークの利権死守という合理性が存在していることを指摘した。フロアからは農産物輸入関税の再度引き上げによる農民所得の引き上げ効果について質問がでた。コメの価格動向は関税引き下げ後に一時低下したものの、貿易・流通を牛耳るエリート・ネットワークの影響のため国内コメ価格は以前の水準以上に上昇しているものの、いったん崩壊した国内生産は土壌回復をはじめ困難であると回答された。国連平和維持軍の撤退に関する質問については、「援助疲れ」と国連安保理での中国の消極的姿勢が撤退のタイミングに影響したと考えられる旨、説明された。討議では受田会員が、ガバナンスと治安分野の国際統計比較にもとづき、ハイチの組織暴力とガバナンス、治安面での特徴を指摘した。近代日本のやくざやメキシコの麻薬カルテルの歴史動向と現状を踏まえ、ハイチでもギャングの手に職をつけ、フォーマル及びインフォーマルな事業の相対的魅力を高めることで犯罪低下を達成できるという合理的推論に基づく現実的な提案がなされた。今井会員は「米占領(1915–1934)の遺産」にフォーカスし、まず、ハイチ経済エリート誕生の起点と発展経路が歴史的に蓄積してきた政治経済、公衆衛生にかかわる諸問題を指摘した。国外勢力とエリートに対する国民多数の「主体性の回復」と「免責」問題の解決が優先的な課題となっているものの、修復的正義の回復の模索が現実的な政策として優先的に追求されるべきであると提案された。


中部日本研究部会

中部日本研究部会は、2022年1月8日(土)14時より17時までオンライン(南山大学をホストとするZoomミーティング)形式で開催された。4件の報告が行われ、参加者は、発表者・討論者を含め25名であった。例年を上回る報告件数であったことに加え、中部地方在住会員のみならず、関東・関西方面や沖縄からも参加者が得られたのは、オンライン開催ならではの成果であった。以下は各報告の概要であるが、発表者から30分ほどの報告があった後に、討論者よりコメントがなされ、全体での質疑応答・討論が行われた。部会終了後の懇親会でも、和やかな雰囲気の中で有益な意見交換・情報共有がなされ、会員間の貴重な研究交流・親睦の機会となった。
牛田千鶴(南山大学)

〈第1報告〉
“A ʻdiásporaʼ da mandioca e a migração de retorno: o cultivo da mandioca no Japão”

発表者:光安アパレシダ光江(浜松学院大学)
討論者:山崎圭一(横浜国立大学)

A autora fez, primeiramente, uma breve apresentação sobre a migração da mandioca, desde sua região de domesticação (América Latina) até a sua possível introdução no sul do Japão. Em seguida, a autora apresentou 3 estudos de caso baseados em entrevistas realizadas com produtores de mandioca na província de Shizuoka, Japão. De um lado, a autora lançou um olhar sobre a migração de retorno dos imigrantes japoneses e a contribuição de japoneses e brasileiros residentes no Japão para a disseminação da mandioca. Por outro lado, a autora demonstrou como está se desenvolvendo o cultivo de mandioca nessa província, assim como as estratégias de vendas e de marketing adotadas. A autora destacou também as principais dificuldades e desafios enfrentados pelos produtores como a dificuldade do cultivo da mandioca em climas temperados, os desafios em relação às mudanças climáticas, as dificuldades na divulgação da mandioca para os japoneses e a crescente competição devido ao aumento do número de produtores. Como comentarista, o Professor Keiichi Yamazaki fez um resumo dos principais pontos da apresentação e questionou sobre como a mandioca poderá ser um instrumento de empreendedorismo. E sob o ponto de vista do desenvolvimento regional, ele questionou também quais seriam as possíveis utilizações da mandioca em outras indústrias. O Prof. Yamazaki também teceu ricos questionamentos sobre o futuro da mandioca no mercado internacional e seu papel para o desenvolvimento econômico nos países em desenvolvimento.

〈第2報告〉
“Actividades no cognitivas durante la pandemia COVID-19 en Latinoamérica: el proyecto Osoji-Japan en Perú”

発表者:Jakeline Lagones (関西外国語大学)
討論者:福間真央(関西外国語大学)

En el contexto actual en el que vivimos por la pandemia COVID-19, el mundo se encuentra ante nuevos desafíos educativos no esperados, como el cierre obligado de las escuelas. Por lo cual, la población se ha preocupado más en mejorar las medidas de higiene drásticamente a nivel mundial. De la misma forma, la UNESCO en el 2020 ha propuesto desarrollar protocolos detallados sobre medidas de higiene como una condición necesaria para la reapertura de las escuelas. En el mismo año, en el Perú, el II Informe Nacional Voluntario del Perú, sobre la implementación de la Agenda 2030 que recoge los 17 Objetivos de Desarrollo Sostenible (SDGs), manifestó que se debe de realizar un intercambio de experiencias entre países para conocer buenas prácticas y lecciones del surgimiento del coronavirus, lo cual es muy importante para el cumplimiento de la Agenda 2030. Por lo cual, se ha diseñado un proyecto educativo denominado "Osoji-Japan". El proyecto fue diseñado para ser aplicado en las escuelas públicas del Perú, pero debido a la pandemia COVID-19, se aplicó en los hogares de los estudiantes de una escuela pública peruana. Para iniciar el proyecto se realizaron trabajos de campo en las escuelas japonesas y se observaron tres actividades no cognitivas (limpieza, voluntariado y reciclado). Como resultado, la implementación de las actividades trajo la concientización ambiental, tanto de los estudiantes como de sus familiares, y el desarrollo de la autonomía de los estudiantes. Además, otro factor importante fue la cohesión social, donde lo más inesperado fue que transformó varios aspectos en la organización familiar como algunos cambios en los roles de género. También presentó algunas limitaciones de intervenir en espacios domésticos donde se rigen diferentes reglas, además del contexto particular de la COVID-19.


〈第3報告〉
「ウルグアイの日系社会―社会文化的統合の一形態―」

発表者:馬場由美子(愛知県立大学大学院)
討論者:中沢知史(立命館大学)

あまたある日系社会研究の中で、ウルグアイは空白地帯である。日系人は推定470人、「消滅の危機」と称される一方、現地への統合が進み、移民社会の成熟した一形態であるとも言える。本研究は、報告者が国際協力機構(JICA)のボランティアとして移住史『ウルグアイ日系人の歩み』を刊行した経験をベースに、戦前・戦後にわたって国策移民がなく、他国からの転住者が多く、集住地を持たない小さな日系社会を記録し、その近未来を予測することを目的としている。ウルグアイの人類学者グスタボ・ジェンタ・ドラドは著書“La Colectividad Japonesa en Uruguay”(1993)で、「日系社会は組織力が弱い」「2世は親から受け継いだ『日本』が現地社会で再生できないと気づく」と分析し、「社会文化的統合へと進んでいく」と結んでいる。報告者はここに「日本文化を愛するウルグアイ人も統合の一翼を担う」という仮説を加え、論証を試みた。
討論者の中沢知史会員からは「小規模コミュニティ研究が移民研究にどう貢献できるのか」というご指摘をいただいた。“So what?”というシンプルだが重たい問いを突き付けられ、「小規模ならではの変化の加速度に注目すれば、他国に先立ってその未来形を予測し得る」という視座を得た。実り多き初の研究部会発表であった。


〈第4報告〉
「乱反射するウルグアイの先住民問題―次回国勢調査を見据えて―」

発表者:中沢知史(立命館大学)
討論者:遠藤健太(フェリス女学院大学)

本発表では、従来「インディオがいない」ことで先住民に関わる研究から除外されてきたウルグアイを取り上げ、独立期における先住民消去の歴史、チャルーア先住民運動のこれまでの歩みと課題について述べた。そのうえで、これまで強固なウルグアイの政党システムに阻まれる形で政治課題にならなかった先住民というテーマが浮上したことで、ホモジニアスな空間として構築されたウルグアイの国家像が変容し、他国に大きく遅れつつも多民族・多文化性を自覚する方向へ動いているのではないかと指摘した。さらに、ウルグアイにおける先住民運動の一つであるチャルーア民族評議会(CONACHA)の活動について、建国期の虐殺の記憶を呼び覚ますことを通じて、国家暴力の記憶を回復するという、普遍的な人権追求の可能性に開かれた運動であると述べた。加えて、ウルグアイの先住民問題は、近年のセトラー・コロニアリズム論や、19世紀の「民族展示」問題、帝国(主義)の遺産としての遺骨問題、アイヌ民族否定論に見られるバックラッシュ問題等、より幅広い文脈の中に位置づけ、比較研究をすることが有益である旨、今後の研究課題として指摘した。
討論者、参加者からは、ウルグアイの先住民運動を取り上げた研究、同国の国勢調査全体の特徴や、2011年に人種・民族的出自の自覚に関する設問が加わった背景、「ウルグアイ人の3割は母方に先住民の先祖を持つ」とする遺伝生物学的観点からの研究の信頼性等について、質問・コメントが寄せられた。なお、本発表は科研費(20K22080)による研究の一部である。


西日本研究部会

2021年11月28日(日)14時より17時まで、西日本研究部会が開催された。今回もZoomを使用してのオンライン形式となった。報告者は2名で、それぞれに討論者がついた。参加者は17名で、今回も、西日本に限らず多様な地域からの参加があった。質疑応答もさかんに行われ、充実した研究部会となった。発表要旨は以下の通りである。
禪野美帆(関西学院大学)

〈第1報告〉
「博士論文研究『ベネズエラ都市部における産前・産後ケア実践:ミランダ州バルロベント地域出身者を対象として』(仮題)の構想」

発表者:川又幸恵(総合研究大学院大学)
討論者:坂口安紀(アジア経済研究所)

本発表は、現在構想中の博士論文研究に関わり、フィールド調査前により多くの意見を頂き研究計画に反映していくことを意図として行った。博士論文研究の目的は、ベネズエラの産前・産後ケア実践は、近年の社会状況下において、複雑化する医療に加え、伝統、制度、そして家族関係といった諸要因が絡み合う中で、どのような交渉や調整のうえに成り立っているのか、そのプロセスについて検討することにある。本発表では、まず文化人類学分野における出産研究を概観した。そして、出産の医療化という領域に焦点を当て、この領域において、ラテンアメリカ地域の都市部の特徴である①文化の異種混淆性、②農村部からの人口の流入と集中、そして都市の人口集中から生まれる多様な社会問題という2つの文脈での出産研究が少ないことに着目した。発表者がフィールドとするベネズエラでは、出産の医療化は20世紀前半から進み、チャベス政権(1999~2013)以降、リプロダクティブ・ヘルス・ライツの向上を目指した母子保健政策が盛んに行われている。しかし、これらの政策により、妊産婦死亡率及び乳幼児死亡率が飛躍的に改善しているとは言えない。博士論文研究では、ベネズエラにおいてこれまで研究されることの少なかった女性の日常的実践の視点から、母子保健政策や産科医療がどのように機能しているのか、また、社会的・文化的側面や社会状況が出産にどう絡み合って実践されているのかを産前・産後ケアに着目して明らかにしていく。
討論者の坂口会員には、ベネズエラの政治、医療の現状を中心にコメントを頂いた。まず、前提としてベネズエラの法律や制度と現実には激しい乖離が存在していることが指摘された。その上で、本研究を進めていくうえで着目すべきポイントとして一つ目に経済の縮小、二つ目に医療システムの崩壊・混乱の2点について説明を頂いた。経済の縮小について坂口会員は、70年代までの経済成長時に、様々な医療制度が整備されたが、80年代~90年代のマイナス成長時に医療をはじめとした社会サービスの予算が縮小されたことで医療制度に変化が起こったことに言及した。また、公共社会サービスが減退した分の補完的な役割として市民社会組織による活動が活発化したことにも触れ、出産や産前・産後ケア実践が医療環境やアクターが変わる中でどのように行われてきたかという点は興味深いとし、発表者もこれに同意した。医療システムの混乱・崩壊については、当該国の医療システムの並列性の特徴をあげ、現在は予算が縮小され基本的なインフラ設備もままならない公立病院、チャベス政権下で始まったキューバ人医師を中心に運営されるミシオン、そして高度な医療サービスを提供する私立病院と、全く異なる医療環境の存在をどのように扱っていくか、どの社会層がどの医療を利用しているかといった点を精査していく必要があると指摘した。今回ご指摘いただいた点を踏まえ、研究計画を精査していきたい。

〈第2報告〉
「マプーチェ医療の「成功」を支えるもの:チリ国家・マプーチェ関係についての考察」

発表者:工藤由美(国立民族学博物館)
討論者:鈴木紀(国立民族学博物館)

 本報告は、2000年以降のチリで先住民マプーチェの伝統的民族医療が公的医療システムに組み込まれて「成功」を収めている、その「成功」という現実が先住民法や先住民政策全体とチリの医療状況に照らして、どのような意味を持つのか検討したものである。
1996年に開始された先住民保健特別プログラム(以下PESPI)は先住民の医療へのアクセス改善を目的に、その実現の柱に先住民の主体的参加とインターカルチュラルヘルス(以下SIC)を据えた。これに呼応したマプーチェ組織によるマプーチェ医療の提供はPESPIの下で公的医療システムに組み込まれ、2006年には首都でもマプーチェ医療が始まった。首都のマプーチェ医療の「成功」の背景には、1970年代以降の急速な健康転換の進展と医療費の急増、医療格差の急拡大、西洋医薬の副作用に不満を持つ層の増大等の問題が顕在化した。この流れの中で、PESPI下の登場とはいえ薬草で知られたマプーチェ医療はより「自然」な代替医療としてチリ人たちに歓迎された。チリ国家にとっても、PESPI下のマプーチェ医療の診療単価は非常に低額で、医療格差だけでなく医療費問題にも有効であり、しかも薬草は自国の新たな医療資源、経済資源として再認識された。他方、首都のマプーチェ組織は、マプーチェ文化復興とマプーチェ集団の可視化を目指す組織活動としてマプーチェ医療を提供しているが、その費用は公的に賄われ、他にも儀礼用の土地の獲得等さまざまな便益の獲得にも成功している。つまり、この15年余りの首都でのマプーチェ医療の「成功」を構成しているのはこれらの細部なのである。この「成功」の細部を検討してわかることは、薬草やSICの概念がバウンダリーオブジェクト(以下、BO)としてチリ国家、マプーチェ組織、チリ人患者等の実践を結びつけ、三者は薬草やSIC概念をBOとして利用しあう関係に立っていることである。しかし、「成功」の基盤をなすこの関係は、三者の間にある薬草をめぐる「自然」概念の相違を顕在化させずにおくことと、レスペート(respeto)という名のもとに西洋医療とマプーチェ医療の相互交流を積極的には展開せず、SICを実現しないまま両者の併存を維持するという二つのことの上に危うく成立しているものである。いわば、異文化あるいは他者に対する相互の、適度な「無視」と「許容」がこの「成功」を支えているといえるのである。
討論者の鈴木会員からは、「マプーチェ医療を利用するチリ国民とマプーチェの人々は、両者の間で薬草の意味が異なることに気づいているか」(回答:気づいている人はいるが、どちらも少数である)、また、気づいている「マプーチェの人々は、マプーチェの世界観を理解しないチリ国民に薬草が効くと思っているか。また、なぜ効くのか」(回答:科学的に薬効成分が認められており、その部分で効くのだろうと考えている)という質問があった。加えて、新自由主義的多文化主義の下で、国家は資本主義を妨げない先住民の権利は尊重するが、資本主義を脅威にさらす先住民は許容せず、先住民の文化は部分的にしか認められていない現実を指摘された。それはチリ政府によるマプーチェ医療の活用が、土地争いをめぐって国家からテロリスト呼ばわりされるマプーチェ活動家と、本事例のマプーチェ医療に携わるマプーチェの間の分断につながる可能性とも重なり、発表者もその点について同意した。さらに、本事例が示す他者の異文化理解への不干渉という態度は、むしろ積極的に、多文化主義の実践の秘訣といえるのではないかという提起もあり、発表者も概ねの賛同を示した。その他、薬草やマプーチェのアイデンティティをめぐってフロアとの質疑応答がなされた。