研究部会報告2013年第2回

東日本研究部会中部日本研究部会西日本研究部会

東日本研究部会

 2013年12月7日13時30分から18時00 分まで、東京大学本郷キャンパスで開催。4 名の報告者、4名の討論者を含む18名が参 加し、多くの出席者に恵まれた活発な研究 会となった。以2下は各研究の報告と議論の 要旨である。(大串和雄:東京大学、和田 毅:東京大学)

○‌河内久実子 (元テキサス大学オースティン校大学院博士課程)
「米国平和部隊のラテンアメリカにおけるプログラム停止について―1971年から1982年のプログラム停止の要因を考察する―」
討論者:千代勇一(上智大学イベロアメリカ研究所準所員)

 1961 年にジョン・F・ケネディー大統領により設立された米国平和部隊(以下、ピースコー)は約半世紀にわたり若者を世界各地へ派遣し草の根国際協力の立役者として活躍してきた。本発表では、1961 年から 2012 年(会計年度)までの51 年間分のピースコー年次報告書(Peace Corps Annual Report)を主な一次資料として、ラテンアメリカ地域における1970年代から1980年代に相次いでおこったピースコー隊員派遣プログラムの停止要因と背景について考察し、以下の4つの停止理由を導いた。それは、(1)ピースコーが派遣国の経済・社会的発展を認め支援の継続が必要でないと判断した場合、(2)派遣国の政情不安・内戦によるもの、(3)派遣国側からのピースコー・ プログラムの追放、(4)米国内の予算の削減、である。これらの考察によって浮き彫りになった政府系ボランティア組織の課題についても言及があった。討論者および参加者からは、ボリビア、ペルー、ブラジルにおけるプログラム停止要因の比較や、コロンビアにおける1970-1980年代のプログラム停止要因としての治安の妥当性について質問があり、各国の事例に鑑みた解釈の必要性が指摘された。また、援助を受け入れる側が「農薬散布の飛行機」であっても「米軍」だと認識している例もあり、援 助をどう理解し内在化しているかという視点を取り入れて、さらに興味深い研究へと発展させてほしいという意見もあった。

○二瓶マリ子(東京大学大学院総合文化研究科博士課程)
「1793年レビジャヒヘドセンサスからみた境界地域テハスの社会状況」 
討論者:佐藤勘治(獨協大学教授)

 本報告では、1793 年レビジャヒヘドセンサスを検討した。そして、サン・アント ニオとナコグドチェスでは、同じテハス内部であっても差異がみられたことを主張した。サン・アントニオは副王領内陸の諸地域と経済的な繋がりが強く、政治・経済的に副王領の統治下にあった。一方、ナコグドチェスはルイジアナ・米国との経済的繋がりが強く、政治的には副王領の統治下で あっても、経済的にはその圏内を逸脱するものであった。上記した植民地時代の状況は、テハス併合史の先行研究においては見過ごされる傾向があるため、さらなる検討が必要だという主張がなされた。会場からは、外交・国際関係史以外のテキサス史研究は日本ではほとんど行われていないため、地元住民の視点から歴史を見直すアプローチは意義深いという評価がなされた。一方、 1793年以降のテキサス社会の急激な変貌も同時に捉える必要性や、圧倒的な数のインディアンとの関係を考察する必要性、サン・アントニオとナコグドチェスという単一の町の比較ではなくヌエバエスパーニャの全体像の中で比較する視点の必要性、政治的境界だけではなく経済的境界や文化的境界をも把握する必要性、軍人の存在と町の関係を考察する必要性など、さらなる研究の深化を期待する意見もあった。

○大倉由布子(メキシコ国立自治大学文哲学部大学院メソアメリカ学専攻博士後期課程)
「紡ぎ織りなす村落共同体アイデンティティ:グアテマラ、マヤ系先住民女性の織物と伝統衣装より」
討論者:川上英(東京大学非常勤講師)

 本発表は、グアテマラのマヤ系先住民女性が織る織物・伝統衣装に着目し、彼女たちがそれらにどのような意味・機能を与えているのかを論じた。織物や衣装は、色や紋様が村ごとに異なることから、村を表象していると言われてきた。しかし、ここ数 十年の経済社会的変化に伴い、それらは村の枠を超えたものへと変容した。このことから、近年の研究では、織物や衣装は村を表象する機能は持たなくなったと言われている。先行研究におけるこのような議論を検討するため、サン・アントニオ・アグアス・カリエンテス村の先住民女性を中心に、織物や衣装と村との関係性を調べた。その結果、色や紋様、使用方法が異なったものてあっても、彼女たちは目まぐるしく変化する社会に適応するために、変容させていることが分かった。村落共同体アイデンティティを失ったわけではなく、むしろ、社会に適応するために、あえて新しいモノに対して、村落共同体という意味・機能を与えているのである。こうした発表に対して、村人によって村の織物の定義には違いがあるようだが精度を高めて分析してほしい、「売るための衣装」と「自分たちが着るための衣装」を区別して分析する必要があるのではないか、伝統衣装の衰退及び先住民共通の衣装の出現と先住民運動との関連性はないのか、具体的な実証部分と結論とが乖離しているのではないかなど、多くのフィードバックがあった。このような指摘を今後の研究に役立ててほしい。

○井垣昌(恵泉女学園大学非常勤講師)
「プフジャイを踊るアルゼンチン人―ボリビア移民の共同体と民俗舞踊をめぐるアイデンティティの交錯―」
討論者:倉田量介(東京大学非常勤講師)

 ボリビアでは、擬制的親族の構築と表象の場となる祝祭が、共同体の主な要素とされ、先住民、征服者、黒人奴隷などを表象する各種民俗舞踊の上演が不可欠とされる。一方、ボリビア移民の4割以上が住むとさ れるアルゼンチンでは、共同体の形成過程において、このような祝祭が祖国を想起させる文化表象に位置付けられてきた。本研究では、舞踊集団に参加するアルゼンチン人に焦点を当て、ボリビア人との相互認識や共同体との関係について、地方都市コルドバにおける舞踊集団プフジャイを事例に考察した。異文化表象する側と自文化表象される側で、帰属意識の差異から生ずる緊張により、国籍とは異なる境界や集団に対する領有の現れ方について、踊り手としての5年間の参与観察の過程で構築したデー タを用いて示した。この発表に対し、討論者および参加者からは、一般研究動向の中でのこの事例研究の位置付けや、ジャマイカ移民のレゲエやドミニカ共和国におけるハイチ人など他の似た事例との比較などについて質問があった。さらに、祝祭や舞踊の発祥地と踊り手の出身地との関係や、踊りそのものの意味などについて質問が続いた。今後の研究のさらなる発展が期待される。


中部日本研究部会

2013年12月7日14時から17時まで、名古屋大学で中部日本部会の研究会が開催され、報告者3名を含む8名が参加した。懇親会でも活発な討論が続き、盛会の内に終了した。以下は報告者自身による要旨である。 (田中 高:中部大学)

○重松由美(大学非常勤講師)
「現地報告:ブラジル人帰国生の現状―ブラジルでの日本文化との係わりについて」

 平成25年8月にブラジルのサンパウロ市とロンドリーナで行った調査を基に、ブラジルへ帰国しその後大学に入学した若者たち(以下、帰国生)の現状を報告した。調査目的は、日本滞在時の経験を帰国後にどのように活かしているかであり、具体的には日本に関する生活習慣や文化的行事そして日本語使用に関して調べた。
 訪問先は、サンパウロ州立大学、ロンドリーナ大学そしていくつかの日系団体である。帰国生の家族の多くは来日以前より日系社会と接点がなかったことや、日系社会の高齢化により従来の日本文化の普及活動が彼らにとって魅力的なものでないことなどから、帰国後は日本と関係する「場」と接する機会をもっていないことがわかった。
 その一方で、帰国生という体験を共有したいとの思いから、SNS を経由してコミュニティが生まれている。オフ会が開催されていることから、現実のコミュニティ誕生の可能性もみられる。
 今後の研究では、在日ブラジル人コミュニティ間での日本文化の捉え方の違いや、ブラジル日系社会で培われてきた日系文化と、Matsuri Danceなどの若者により創造されたブラジル社会により融合しやすい「新」日系文化の影響を視野に入れ、帰国生の日本文化に関する属性が、日本語使用や日本文化との関わり方とどのような関係性をもっているのかを明らかにしていきたい。

○大谷かがり(中部大学助手)
「リーマンショック後のブラジル人コ ミュニティについて」

 ブラジル人コミュニティについて、「顔の見えない定住化」がリーマンショック前後にどのように変化したかを、豊田市内のブラジル人集住地域である保見団地において、2004年4月から2011年3月にわたり、フィールドワークと聞き取り調査した。1990年から2011年までの保見団地での出来事を整理し、ブラジル人が日本人とは異なった生活圏を築き、日本語が話せない/読めない人たちが集住した過程を示した。09年2 月に多くのブラジル人が仕事を失った。09 年度の帰国支援事業で約700名が帰国し、コミュニティ通訳者はヘルパーなどに転職した。失業したブラジル人は7 ~ 8割と推測される。リーマンショック後も製造業の求人はあるが、日本語が話せることが就職の条件となり、豊田市では日本語教室も開講しているが、成果を出すにはある程度の時間が必要になるであろう。生活費を切り詰めるために受診を辞めて健康を害している人もおり、リーマンショックによって、日本語を解さないブラジル人はさらに厳しい生活環境に置かれていることが分かった。

○遠藤健太(名古屋大学大学院博士後期課程)
「リカルド・ロハスとフォークロア:アルゼンチンのナショナリズム思想が民俗学に及ぼした影響についての考察」

 20世紀前半のアルゼンチンにおいて民俗学とナショナリズム思想が密接に結びついていたことは、しばしば指摘されてきた。 そして、思想史的観点からアルゼンチン民俗学の歴史について論じた先行研究の多くが、ナショナリズム思想家のなかでもとりわけリカルド・ロハス(Ricardo Rojas、1882-1957)が民俗学者らに大きな影響を及ぼしたと説明してきた。しかし、いずれの 研究においても、「ロハスが民俗学に影響を及ぼした」という説明には実証的な裏付けがなく、その「影響」の実態は明らかにされていなかった。そこで、これを明らかにしようと試みたのが本報告であった。  
 まず、ロハスが民俗学の発展に対して成した貢献の内容を実証的に示した。具体的には、彼が所長を務めた「アルゼンチン文学研究所」が、フォークロア研究に関する先駆的な業績を上げ、後のアルゼンチン民俗学を牽引することとなる重要な人材を輩出するに至ったことを、同研究所の刊行物・ 内規等の一次資料の分析を通じて明らかにした。  
 他方、報告者は、ロハスと民俗学の間の〈思想的〉連続性を強調する通説には疑を呈した。その根拠として、まず、ロハスの著書の分析を通じて、ナショナリズム思想家としての彼の特質が「メスティソ主義」というべき思想(「先住民性」と「スペイン 性」の混淆によってアルゼンチン固有の国民性が形成されるとみなす思想)にあったことを確認した。そのうえで、民俗学者らのテクストを例示して、20世紀前半の民俗学においては「スペイン主義」というべき 思想(国民性の表象として専ら「スペイン性」を称揚し、「先住民性」を捨象または軽視する思想)が支配的であったという仮説を提示した。

西日本研究部会

 2013年12月7日(土)午後2時から5時過ぎまで、同志社大学烏丸キャンパスで開催された。研究部会には、10名の参加があり、活発な議論が行われた。額田報告では、コスタリカの裁判において先住民の要求を契機として文化鑑定制度が導入されたが、6つの文化鑑定の事例の中で文化鑑定士により「伝統文化」がどのように語られたかに着目した発表が行われた。文化鑑定と法制度との関係や鑑定制度導入の背景について質疑応答が行われた。石田報告は、アルゼンチンの軍事政権下における人権抑圧に対する日系移民社会の対応について、日系社会失踪者家族会(FDCI)の活動に着目し、日系人のアイデンティティを探求するというものだった。まだ構想段階であり、日系コミュニティ内部での対立関係(世代間、沖縄/内地間)の影響や、人類学における先行研究との関係についてなどの質問が寄せられた。笛木報告は、エルサルバドルとグアテマラの企業家層の政治行動に焦点を当て、民主化への過程に企業家などの経済頂上団体の結束力が与えた影響を2ヵ国の経団連史を資料として分析したものである。議論では、産業構造と経済頂上集団 による民主化交渉力の関係、軍隊と企業家との繋がり、などについて質問およびコメントが述べられた。発表後、7名が参加して交流会が行われ、和気藹々のうちに研究部会を終了した。以下は各発表者による要旨である。 (松久玲子:同志社大学)

○額田有美(大阪大学大学院人間科学研究科)
「「鑑定」される「文化」―コスタリカ刑 事裁判の事例より―」

 本報告では、2012年(7月~ 9月の約2カ月間)と2013年(8月~9月の約3週間)にコスタリカにて行った、「文化鑑定(Peritaje Cultural)」(「文化鑑定」とは、司法機関が自らの判断作用を補うために、先住民の被告人の有する独自の文化や慣習(法)に関する学識経験を有する人類学者に専門家としての意見や見解を求めるための司法鑑定制度である)についての質的調査の結果に基づき、次の2点を報告した。
 まず 1 点目は、近隣諸国に比べると先住民人口が極めて少ないコスタリカにおいて 「文化鑑定」の鑑定対象となっている先住民の「文化」が、裁判内においては非先住民の関係者たち(検察官、弁護士、人類学者など)によって「伝統文化」ということばに置き換えて語られているということである。
 そして2点目は、「文化鑑定」に携わった経験を持つ関係者のうち、人類学者以外の多くが、過去から現在へという時間の連続性を有する「真の伝統文化」と、そうではない「創られた伝統文化」という本質主義的な区別があることを前提に、「伝統文化」ということばを用いているのに対し、人類学者たちは、裁判内においては連続性を有する先住民の「伝統文化」を語りながらも、 裁判外のより自発的なコンテクストにおいては、その非連続性や動態性にも言及したということである。
 裁判外でのダイナミックで動態的な先住民の「文化」を、裁判内においては「伝統文化」ということばに置き換えて本質主義的で静態的な「文化」として語らざるを得ない、コスタリカの人類学者の直面するジレンマが明らかとなった。

○石田智恵(立命館大学・衣笠総合研究機構)
「1970 年代アルゼンチン軍政下の「行方不明者」をめぐる近年の日本人移民コミュニティ内の動向」

 本発表では、アルゼンチンにおける日系コミュニティでの調査の過程で得られた資料と知見を提示しつつ、これにもとづく今後の研究の関心・展望を示した。
 アルゼンチン最後の軍政期(1976-83 年) の「汚い戦争」の犠牲者となった「行方不明者(失踪者)」のなかに、十数名の日系人が含まれていることがわかっている。現在のアルゼンチンでは「行方不明者」問題は重大な人権問題として認知され、真相究明が求められているが、日系コミュニティのとくに上位世代のなかには、身内に「行方不明者」がいることを恥と考えたり秘匿しようとする傾向がみられる。真相究明活動を行なう日系人の団体はこうした「日本人的な」態度を批判し、アルゼンチン社会の一員として社会に働きかけることを是としている。だが、おおむね 2000 年代以降はこのような対立も少しずつ緩和しており、 日本大使館の関わり方にも変化がみられる。こうしたコミュニティ内の動向と、アルゼンチン社会全体の動向とを照らし合わせながら、以下のような問いを立てて調査・研究を展開していく予定である。この時期のような圧倒的権威主義体制において、移民コミュニティに属しその一員として活動することと、一市民としてナショナルな社会を生きることとの間にどのような関係があるのか。「失踪」というかたちでの国家による個人の同一性の消去に対し、それを回復するような人権団体の活動は、集団的同一性の問題状況といかに関わるのか。「移民」において継承される出自(エスニシティ) は、国家の非常時においてどう維持される/されないのか。

○笛田千容(東京大学大学院総合文化研究科地域文化研究専攻)
「中米の企業社会と政治変動―エルサルバドルとグアテマラの経済頂上団体を中心に―」

 かつて抑圧的な体制を支持していた二カ国の企業社会のうち、エルサルバドルの企業社会のほうがグアテマラのそれよりも、和平と民主化のプロセスに積極的に参加できたのはなぜか。本報告では、企業社会の持つ危機感と結束力の違いが、その後の政府および他の社会集団との関係の持ち方を左右する、というドゥランとシルバ(1999)の見方を採用する。一次資料として、エルサルバドル経団連(ANEP)とグアテマラ 経団連(CACIF)の団体史を使用する。  
 企業社会の危機感や結束力をどのように測るのか。先行研究が残したこの課題については、経済人の政治的暗殺事件に見られる特徴的傾向のほか、経済頂上団体の設立から運営体制の確立までに要した時間や、 構成組織の退会などに注目し、比較可能な指標を模索的に設定する。  
 1940 - 1980 年代、二カ国の企業社会をとりまく政治状況(長期軍政の基礎を固めた個人独裁者の失脚後、軍部改革派と革命的左派勢力が台頭)は一見、似通っている。しかし、企業社会、軍部、革命的左派勢力といった政治アクター間の関係をたどると、二カ国の企業社会には異なるタイプの危機感が生じていたことがわかる。その結果、グアテマラの企業社会は結束力を欠き、エルサルバドルのように企業社会の総意をつくりだしながら和平交渉に参加することが出来なかったのである。